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あの4つのリングの由来は?アウディの歴史を紐解く

 

■黎明期:アウグスト・ホルヒと4つのブランド


 

 

アウディの創業者アウグスト・ホルヒは、大学卒業後カール・ベンツのもとで働き、自動車生産部門の責任者を務めました。

 

その後1899年に独立し、ホルヒ&チエ自動車工業を設立。

 

この会社は、1904年に株式会社に再編されますが、ホルヒは取締役会との対立によって1909年に会社を離れます。

 

その後、ホルヒは2番目の会社を設立。このとき、ホルヒという名前がすでに使われていたため、新会社はホルヒ(ドイツ語で「聞く」)と同じ意味を持つラテン語「アウディ(AUDI)」が使われることになりました。

 

アウディ社は、すぐさまモータースポーツで成功を収めますが、当のホルヒは第一次大戦後にアウディを離れ、独立した自動車専門家として活動を始めました。

 

1929年の世界大恐慌は、第一次世界大戦後のドイツに大きな打撃を与えました。

 

そうして1932年、モータースポーツの世界で活躍していた「ヴァンダラー」、2輪車のモータースポーツで目覚ましい戦績をあげていた「DKW」、「ホルヒ」「アウディ」が合併し、「アウトウニオンAG」が設立されました。

 

重ねられた4つのリングからなる新しい会社のエンブレムは、これら4つの会社の団結を表現していました。

 

 

■レースでの活躍1:シルバーアローの時代


 

当時のアウトウニオンAGにとって必要なのは、新しい社名を一般に浸透させることでした。

 

自動車レースはそのための格好の手段として選ばれ、アウディが訴求したい技術水準やプレステージ性を考え、グランプリレースへの出場が計画されました。

 

マシンは、ヴァンダラーとフェルディナント・ポルシェがすでに締結していた技術サポート契約により、ポルシェが設計することになりました。

 

そこで生まれたマシンは、ドライバーの後ろにV型16気筒エンジンを搭載するミドシップで、当時は新鮮なレイアウトでした。

 

こうして誕生したグランプリマシンは、ベルント・ローゼマイヤーという才気あふれるドライバーによって多くの勝利を重ねていきました。

 

アウトウニオンの主要なライバルはメルセデスで、両チームのマシンはナショナルカラーで塗装されたボディから”シルバー・アロー”と呼ばれ、レース界を席巻したのでした。

 

その後、最高速度記録への挑戦を行なっていたローゼマイヤーが事故死してしまうなど困難を経験したものの、マシンの開発は順調に進み、新たなドライバーも得て躍進を見せましたが、残念ながら第2次世界大戦の勃発により、輝かしい時代は突然の終焉を迎えることになったのです。

 

 

■レースでの活躍2:ラリーに革命をもたらしたクワトロシステム


 

第二次世界大戦の戦火と敗戦により多くの生産設備や拠点を失ったアウトユニオンは、存続と再起を図るためダイムラー・ベンツによる吸収、1966年にはフォルクスワーゲン傘下となるなど、紆余曲折を経ることになります。

 

その後、時代に合わせた新型の開発やブランドイメージの刷新に合わせ、AUDI(アウディ)ブランドが復活、80、90シリーズが市販化を開始しました。

 

その後、1980年になると、四輪駆動システム「クワトロ」が誕生します。

 

当時、4WDといえば悪路走破のために2WDと4WDを切り替えるパートタイム式で、ぬかるんだ道を脱出するためにゆっくり走るために使うというのが常識でした。

 

しかしクワトロは、さまざまな路面でクルマの持つパワーを確実に路面に伝えるという目的で搭載されたフルタイム式の4WDで、そのコンセプトが画期的だったわけです。

 

アウディは、クワトロ システムの優位性をできるだけ速やかに人々に示す手段として、世界ラリー選手権(WRC)という舞台を選びました。

 

1981年のモンテカルロ ラリーにおけるアウディ クワトロ(Quattro)のデビューは非常にセンセーショナルで、まさにモータースポーツ史に残るものとなりました。

 

最初のSSで、1分先にスタートしたランチア ストラトスをオーバーテイクしてみせたのです。

 

圧倒的な戦闘力のアウディは、翌1982年シーズンも当然のようにコンストラクターズチャンピオンを獲得し、技術力の高さだけでなく、ラリーそのものの魅力をも引き上げました。

 

いまでこそ当たり前のようにスポーツカーには4WDが搭載されるようになりましたが、ラリーの歴史のみならず、4WDに対するイメージを根底から覆してしまったのが、アウディだったのですね。

 

 

■レースでの活躍3:DTMとツーリングカー


 

1986年のシーズンをもってラリーから撤退したアウディは、サーキットでのレースに目を向けるようになりました。

 

1990年、母国ドイツで開催されるDTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)にV8 クワトロ(quattro※qが小文字)で参戦します。

 

このマシンは、最初のシーズンでいきなりタイトルを獲得。

 

翌1991年には4台のマシンを用意して挑み、アウディはDTM史上初めて2シーズン連続でタイトルを獲得する快挙を成し遂げます。

 

1993年には、フランスのスーパーツーリングカー選手権に、80クラトロを投入してチャンピオンを獲得。

 

1996年になると、ドイツ、イタリア、イギリスのツーリングカー選手権にA4 スーパーツーリングがワークス参戦するとともに、ベルギー、スペイン、オーストラリア、南アフリカのインポーターが、それぞれの国でツーリングカー選手権を戦いました。

 

結果、この年アウディは、7つの国でツーリングカー選手権のタイトルを獲得しました。

 

2004年にはワークスチームがDTMに復活。

 

新開発のAudi A4 DTMを投入し、ドライバーとチームの両方でタイトルを獲得。

 

2007-2009年シーズンは、DTM選手権史上初の3連覇も達成しています。

 

 

■レースでの活躍4:ディーゼルでル・マン優勝


 

ツーリングカーレースで活動するいっぽうで、アウディはル・マン24時間レースに挑戦するために、1997年から1998年にかけて、まったく新しいレーシングカーの開発を進めました。

 

R8と名付けられたマシンには、450kW(610ps)のパワーを発揮する3.6L V8ガソリンツインターボエンジンが搭載され、初参戦の1999年に3、4位フィニッシュという結果を残しました。

 

2000年になるとR8は、ル・マン24時間レースで1位から3位を独占するという完璧な勝利を果たしました。

 

翌年は、直噴エンジンに進化したAudi R8が、1位、3位、4位と圧倒的な実力を見せつけます。

 

アウディに対抗できるライバルはおらず、R8は翌,2002年、日本人ドライバーの荒聖治がドライブした2004年、2005年に優勝を飾りました。

 

2006年になると、アウディはル・マンマシンを刷新。新しいR10 TDIには、なんとディーゼルエンジンが搭載されていました。

 

もちろんディーゼル搭載車が参戦するのはル・マン史上初めてのことです。 このマシンでもアウディは快勝。

 

2007年、2008年も優勝し、デビュー以来3連覇を果たします。

 

2009年からは、気筒数を2つ減らしてV10となったR10は、翌年に圧倒的な1-2-3フィニッシュ、2011年からは新しいレギュレーションに則った3.7L V6で優勝。

 

さらに2012年から2014年のハイブリッドシステムを採用したR18 e-トロン クワトロで、史上初となるディーゼルハイブリッドシステムによる優勝を含め、5連覇の偉業を達成しています。

 

アウトウニオン時代以後、F1というフィールドをあえて避けてきた感のあるアウディ。

 

それはアウディがレース活動を、市販モデル開発のための理想的なテストベンチであり、アウディの技術力をユーザーに伝える適切な手段と考えているからです。

 

現在アウディは、電気自動車によるレースシリーズ、フォーミュラEとDTMへの参戦に力を入れています。

 

車両の電動化や自動運転などの技術革新に挑戦するアウディに、引き続き注目していきたいと思います。

 

 

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